新渡戸稲造にみる、日本人男の国際結婚

新渡戸稲造にみる、日本人男の国際結婚

最近、寒いしか言ってない気がする、Bodmchildです。

有名人における、日本人男性の国際結婚で、竹鶴政孝さん蝶野正洋さんをご紹介してきました。

素晴らしいご夫婦の数々でしたね。

日本人男性の国際結婚も意外とあるもんです。

この勢いに乗って、昔の偉人編ということで、勝手にご紹介していこうと思います。

本日は、新渡戸稲造さんです。

旧5000円札の肖像画、新渡戸稲造

私が新渡戸稲造と聞いて思い浮かべるのは、「旧5000円札」と著書「武士道」です。

日本史はそれほど勉強してこなかった私にとってはこの2つのイメージが先行し過ぎています。笑

 

・旧5000円札

私は新渡戸稲造さんは、5000円札の肖像のイメージが強いです。

小学生時代、お年玉で新渡戸稲造さんを貰うととても喜んだもんです。

日本のお札というのは、それ以前まで伊藤博文であったり、聖徳太子であったり、歴史的な偉人や政治家が多かったのですが、新渡戸稲造さんが選ばれた時点から、「政治家ではなく、文化人を選ぼう」という風潮になったことと、「武士道」が世界で出版されベストセラーになったことで、世界通貨として「円(YEN)」の認知度を上げる目的がったという背景があります。

国際結婚もしているし、英文でベストセラー作家だし、どんぴしゃですね!

今の若い世代の人は、5000円札の肖像画が現在の樋口一葉ではなく、新渡戸稲造だったことを知っているのだろうか?

 

・武士道:The soul of Japan

新渡戸稲造さんはベストセラー作家でもあります。

英語で出版された“武士道:The Soul of Japan”の著者です。

日本人の精神的な土壌が武士の生活態度や信条というモデルケースから醸成されたという過程を分かりやすく伝えている内容になります。

個人的には、外国人向けに書いている内容なので、日本人からすると賛否両論あるかもしれません。

しかし、結構、外国人の方には人気があります。

日本が好きな外国人はほぼ100%の確立で知っています。

私も持っています。

現代の日本人にこそ読んでほしいと思わせる本です。


武士道 Bushido: The Soul of Japan【日英対訳】 (対訳ニッポン双書)

 

新渡戸稲造の半生

そんな新渡戸稲造さんですが、正直、何をした人なのかはよく理解していませんでした。

自分のイメージが乏し過ぎる。苦笑

半生を見ていきましょう。

《新渡戸稲造の半生》

1862年に陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)にて、藩主南部利剛用人を務めた盛岡藩新渡戸十次郎の三男として生まれました。幼名は稲之助と言うそうです。

作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、学問と武芸を学び、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習っていました。

作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。

上京後は叔父の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学んだ。

英語に傾倒していたのも、新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたと言われています。

13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校東大の前身の一つ)に入学しました。

稲之助(新渡戸稲造)は、巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから農学を志すようになったと言います。

15歳になった1877年9月に、当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関であった札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学した。

農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いだったそうです。

札幌農学校に入学時は、何かあればすぐに論争を繰り広げる熱血な青年でしたが、キリスト教徒(洗礼名:パウロ)となり、次第に、落ち着いた紳士的な青年へとなり、性格も変わって、西洋の文化と学問の魅力に惹きつけられました。

卒業後は、北海道庁に勤務しますが「太平洋の懸け橋になりたい」と国際社会で活躍することを胸に抱き、東京大学へ入学します。

そして更なる学問を求め、1884年にアメリカへと留学しました。

もともと裕福な家というのもありますが、東大→北海道大学→東大→公務員→東大→アメリカ留学ですから、相当なエリートですよね。

そして、その留学先のアメリカにて、妻となるメアリーさんと出会うことになります。

 

 

アメリカ人妻 メアリー

新渡戸稲造さんの妻は、アメリカ人のメアリー・パターソン・ウィルキントンさんです。

当時は明治時代ですから、相当珍しい国際結婚になります。

正統的なクエーカーであり質素な生活の中で育ったメアリー・パターソン・エルキントンは、新渡戸稲造がジョンズ・ホプキンズ大学の大学院生になっていた時(1886年)に、フィラデルフィアで行われたクェーカー派(キリスト教の一派)の集会に参加し、新渡戸稲造と出会っています。

その集会にて新渡戸稲造が講演した際に、聴衆の一人として聞いていたメアリーさんが新渡戸稲造を見初めて告白をしました。

恋人関係となった後、新渡戸稲造はドイツへ3年間留学へ行き、その後も愛を育みました。

1891年にフィラデルフィアで国渣結婚をしています。

しかし、当然、結婚は簡単ではなく、両方の家族が猛反対。

中でもメアリーの父親は強烈に反対しており、地元の新聞にその見解が掲載されるほどです。

その内容は、人種差別的な話ではなく、娘が日本へ行ってしまうことに対する嘆きだったようです。

新渡戸稲造の郷里にある内丸教会の牧師はメアリーのことについて「聡明なだけではなく、最後まで新渡戸に寄り添った強い人だったと思う」と回想しています。

夫婦で貧しい子供のための学校を作ることを共通の目標として奔走し、1894年には学校を設立することを叶えたというエピソードがあり、まさにその通りの人物だと推察されます。

この新渡戸稲造、メアリー夫妻にはお子さん、遠益(とおます)が生まれたが生後8日で夭折しており、養子迎え入れています。

マッサンも養子を迎え入れていましたね。

 

 

結婚後の新渡戸稲造

メアリーとの結婚後、日本へ帰国し、札幌農学校(北海道大学の前身)の教授となります。

農業科目だけでなく語学などの多くの科目を受け持ち大活躍しました。

1900年、英語で「武士道」を書き上げます。

この「武士道」は、アメリカのルーズベルト大統領にも読まれ、各国語(ドイツ語、フランス語etc)に翻訳され、ベストセラーとなりました。

1901年、台湾総督府で働き、1903年には京都帝国大学(現在の京都大学)の教授、1906年には東京帝国大学(現在の東京大学)の教授に赴任しました。

その後も、数々の教育機関で活躍しておりました。

1920年、国際連盟設立の際に、事務次長に選ばれました。

第一次世界対戦の終結後に世界平和への関心が高まり、「武士道」の著者として国際的に高く評価されていた功績によるものでした。

日本人として初の国際連盟職員の誕生です。

事務次長を7年間つとめたあと帰国し、軍国主義へと突き進む日本に危機感を抱き、1931年に起きた満州事変で、日本が国際社会から孤立していく様子に耐え切れず、世界主要国と日本を取り持つように尽力しましたが、その努力は実らずに日本は戦争への道を歩み、1933年に日本は国際連盟を脱退しました。

その1933年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加しました。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、入院、そのまま容態が悪化し、亡くなられました。享年72(満71歳没)

「太平洋の掛け橋」になりたいと、夫婦で夢を追った人生だったと言えます。

新渡戸稲造さんの1番の功績は、「太平洋の掛け橋」となるべく国際平和に魂を捧げたことです。

 

 

まとめ

貧しい子供のための学校設立や日本人初の国際連盟職員など、「太平洋の掛け橋」となるべく国際平和に魂を捧げた新渡戸稲造さんの人生。

その人生には、アメリカ人妻のメアリーの存在が大きく起因しています。

新渡戸稲造の信念、その根底にある武士道を理解し、寄り添っていくことを決意したメアリーだからこそ、新渡戸稲造の人生が結婚以前より素晴らしい方向に行ったのかもしれませんね。

国際結婚してなかったら、“武士道:The Soul of Japan”も生まれなかったかもしれませんしね。

夫婦とはこうありたいもんです。

最後までご拝読ありがとうございました。

ほな


武士道 Bushido: The Soul of Japan【日英対訳】 (対訳ニッポン双書)