野口英世に見る、日本人男の国際結婚

野口英世に見る、日本人男の国際結婚

お笑い芸人の金属バットにハマり中、どうもBodomchildです。

3回に渡って、少なく見られがちな日本人男性の国際結婚を紹介してきました。

知れば知るほど、素晴らしい夫婦の数々です。

前回の新渡戸稲造さんに引き続き、昔の偉人編 第二弾をご紹介いたします。

本日は、野口英世さんです!



1000円札の肖像画、野口英世

私が野口英世と聞いて思い浮かべるのは、「1000円札」「黄熱病研究」です。

理系出身の私としては、若干ではありますが、「黄熱病研究」のイメージの方が強いです。

 

・1000円札

多くの日本人の財布中に野口英世はいます。

それくらい見慣れていると思います。

旧1000円札では夏目漱石でしたが、2004年にお札が刷新された際に樋口一葉とともに1000円札の新たな肖像画として追加されました。

新渡戸稲造さんの記事の中でも書きましたが、肖像画に選ばれる条件は、「世界に誇れる功績」、「知名度」、「特徴的な顔立ち(偽造防止の観点から)」だということですので、世界を舞台に活躍した学者という側面とパーマがかった特徴的なヘアースタイルも相まって、選ばれたの納得です。

そういえば、「ターバン野口」って一時期流行っていましたね。笑

 

・黄熱病研究

私が初めて野口英世の存在を知ったのは、小学生の頃に「伝記 野口英世」を読んだからです。

その時に受けた印象としては、

「黄熱病の研究の果てに、黄熱病に罹り、アフリカで最後を遂げた」

黄熱病は、主にアフリカや中南米で蚊に刺されることで、黄熱ウイルスに感染し発症します。

死亡率が30%〜50%と、現代でも恐ろしい病気です。

この幼い自分が抱いた印象がとても強烈で、研究者の生き様として、一種の憧れのようなものを感じていました。

実は、野口英世の功績はこれだけではなく、むしろ、黄熱病は晩年の話に過ぎないですよね。


学習漫画 世界の伝記 野口英世 伝染病にたちむかった医学の父

 

野口英世の生涯

1876年11月9日に福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代)で父・佐代助と母・シカの長男として生まれ、1928年にアフリカ・ガーナ共和国のアクラで生涯を閉じました。

51歳という生涯でした。

1歳の時に、その後の彼の人生に大きな影響を与えた事件が起こります。

両親の農作業中に、囲炉裏(いろり)へ落ちて左手の指が全部くっ付く大やけどを負ったのです。

母・シカは、自分の不注意から英世の左手の自由を奪ったことをひどく悔やみ、将来は農家ではなく学問で生計を立てるように教えます。

そのような考えから、母は一生懸命働き、英世を小学校へ通わせました。

当時の小学校は、お金持ちの子どもだけが通える所だったため、農家の子どもであることと左手が不自由なことを理由に何度もイジメられますが、その度に母に励まされ勉強に取り組みました。

英世の優れた学力は、猪苗代高等小学校の教頭・小林栄に認められ、猪苗代高等小学校へ入学しました。

この時、学費を支払ってくれた小林栄は、英世にとって生涯の恩人になります。

15歳になった英世は、左手の障害について書いた作文がきっかけで、小林やクラスメイトからの募金が集まり、手術を受けて左手に少しの自由を取り戻しました。

高等小学校を卒業した英世は、手術を担当してくれたアメリカ帰りの開業医・渡部鼎(わたなべかなえ)の元で医学の基礎を学びます。

1896年、英世は医師免許を取るために、恩師・小林栄からの多額の援助(借金)を受けて東京で医術開業試験を受けます。

1次試験の筆記試験には、見事一発合格しましたが、都会の誘惑に負けて借金したお金を遊びで使い果たします。

2次試験の臨床試験は、左手を使う打診が含まれていたため、血脇の心遣いで帝国大学の外科医・近藤次繁の左手再生手術をタダで受けています。

結果、夢だった医師免許を手に入れた英世でしたが、左手のやけど痕がコンプレックスだったため開業医は諦めて、研究者の道を歩み始めました。

1898年、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始めます。

1899年、横浜港検疫所検疫官補となり、 横浜港に入港した“亜米利加丸”の船内でペスト患者を発見・診断しました。その功績が認められ、清(中国)でのペスト対策メンバーに選ばれますが、清への準備金として渡されたお金は、また遊びに使い果たしました。

その後、義和団の乱により、清の情勢が悪化し、帰国を余儀なくされます。

帰国後、箱根の温泉地にて知り合った、女学生・斉藤ます子と婚約を取り付けます。

1900年、北里柴三郎の紹介状を手に、アメリカのペンシルバニア大学医学部で、助手として働きはじめました。

この時、斉藤ます子の婚約持参金を渡航費に当てています。

大学では、毒蛇の研究に携わり、その研究論文でアメリカ医学界から大絶賛を受け、一躍アメリカの医学界に名を知られることとなりました。

その後、コペンハーゲンの血清研究所に留学を経て、ロックフェラー医学研究所に迎えられました。

1905年、血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済し、斉藤ます子との婚約を破棄しました。

1911年、梅毒スペロヘータの純粋培養に成功し、京都大学より医学博士の学位を授与され、1914年には東京大学より理学博士の学位を授与されます。

1911年には、妻メリーと国際結婚しています。

1918年、ロックフェラー財団から黄熱病の研究の要請を受け、エクアドル、メキシコ、ペルーへと旅立ちました。この時には、黄熱病の他にもオロヤ熱などの研究に取り組んでいます。

1928年5月、アフリカのガーナ共和国のアクラで、黄熱病の研究中に感染し、その生涯を終えられました。

 

《野口英世の豪快伝説》

生涯を見ていくと、借金→遊び→遊びを繰り返していますね。

特に最初の婚約者の斉藤ます子の扱いがひどい。結婚詐欺やないか。。苦笑

文面だけだと、「腐れ外道」やないかい!笑

野口英世のモットーには「働くときは死ぬほど働き、遊ぶときは死ぬほど遊ぶ」という言葉があったのでしょう。

アメリカ医学界では英世を指して「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄する声もあったそうですし。

想像以上に破天荒な性格だったことが伺えます。

印象を受けた野口英世語録として以下、紹介します。

・私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきた。

・名誉のためなら危ない橋でも渡る。

・過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ。

友達にはなりたくないタイプなのは間違いないですね笑

俗にいう、ザ・研究者という性分のようですね。

0か、100かみたいな。


妻、メリー・タージス

そんな偉大な研究者であり、遊び人である野口英世の妻はどんな人なのか。

妻は、アイルランド系アメリカ人のメリー・ロレッタ・タージスさんです。

性格は、優しく大らかな方だったようです。

ですが一方で、酒乱で酔うと、夫の野口英世を張り倒すことがあったようですね。

現代でいう、鬼嫁なのかなと勝手に想像したりしてしまいます。笑

ですが、このメリーさんは野口英世の研究に理解を示していて、野口英世が研究で使っている細菌の標本を家に持ち帰っても平気だったようで、

夫の仕事に関して理解を示し、献身的に夫を支える、大和撫子のような心を持った人のようです。

想像以上に破天荒な野口英世の妻ですから、その位の度量が無いと逆に務まらなかったかもしれませんね。苦笑

新渡戸稲造さんの妻 メアリーさんもそうですが、日本人男性と国際結婚をしている外国人女性は大和撫子のような側面を持ち合わせている方が多い印象を受けます。

1947年、71歳でその生涯を終えられました。

 

お二人の出会いと結婚

メリーさんが高校卒業後にペンシルベニヤからニューヨークへ移り住み、ニューヨークのレストランで働いていました。

そこで、当時ロックフェラー医学研究所で勤務していた野口英世と出会い、意気投合しました。

その後、愛をはぐくみ、1911年に国際結婚されています。

お二人は、とても仲が良く、お互いを「ヒディ」、「メージー」と呼び合っていました。

お子さんには恵まれなかったようで、野口英世の甥(姉 イヌの長男)を養子に迎え入れました。

献身的なメリーさんは、日本の福島県に在住する義姉イヌに仕送りを欠かさなかったとされており、野口英世の没後も最後まで仕送りしていたようです。

お二人は揃って、ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬されています。


まとめ

いかがでしたでしょうか?

野口英世は1歳の時に左手に火傷を負ったことがキッカケで医学の道へ邁進し、数々の功績を世に残しました。

その生涯は想像以上に破天荒であり、その影にはアメリカ人妻のメリーさんの支えがあってこそだと思います。

理系分野に進んだ人間として功績は勿論、国際結婚した人間としてもその生涯へは一種の憧れを抱きます。

偉人たる所以だと思いました。

最後までご拝読ありがとうございました。

ほな